大崎善生の小説、「アジアンタムブルー」を手にとってしまった。
そしたらまたもや号泣してます。
私は喜ぶことをはじめ、笑うことも泣くことも、怒りも不安も恐怖も不快感も、人間にとってすべて同等に必要不可欠なもので、
それらの感情を万遍なく頻繁に刺激することが必要なんだと思っています。
(まあそれらの感情を、「表現」するときは考えないといけないですが)
でも戦場に行って恐怖やサバイバルを体験することは誰もが出来ることではないし、
そーゆーのはせめて疑似体験するだけでもいいんじゃないかと思います。
でもすべて疑似体験するだけでは想像の域を出られないので、とても空虚な感情にしかなりません。
実感もないし共感も沸きません。
人間には、やはり「体験」が必要なのです。
朝からくだまいてすみません。
何がいいたいかと言いますと、
「アジアンタム~」で死ぬことに直面した人間の描写にやられてしまい、
大泣きしてしまったのですが、
自分なりに体験した周囲の「死」を元に、構築してきた「自分の死生観」が、
私を泣かせてくれているんだろうな、と思ったのです。
見取ったり、失った体験は、
自分にとって大事なことだったんだな・・・と。
「アジアンタムブルー」も「ジパング」も、「死生観」をきちんと持っていたほうが、
うんとうんと感動できるお話だと思います。
そして時々、自分の「死生観」はどうなのかを見直すために、
本や漫画を読んだり映画を見たりして疑似体験して、「気持ち」を思い起こすことも必要なんだと思います。
なんか面倒くさいこといっぱい書いてゴメンナサイ。
泣いたことは書かないと、なんか忘れちゃうそうで・・・・。
今回の杉本のセリフが良くて、
なんか・・・・・久しぶりに胸に響いて、モニを買って帰っちゃいました。
**************
目次にさ、「別れのとき」って書いてあるから、ものすごくぎょっとした上に、
「儀式めいたことは嫌いなあなたが・・・」という麻生のセリフ・・・。
もお・・・やだやだ・・・涙。
「再会」を誓う米倉や杉本は、きっと無事にみらいと再会できそうだけど・・・な。
なんかもう色々不吉な描写に見えてしまって・・・。
人間が生きて来たのを一番実証するものって、
日常生活そのままの姿じゃないですか?
たとえば事件が起こったときに、よくテレビに映し出されるのが「ベランダの洗濯物」。
その人が使ってた食器とかスプーンとか・・・・・・・。
杉本の、家が更地になった跡の小ささに驚くって、私も体験したことがあるのですが、
あれ、本当に小さく感じるんですよね。
人間て、こんなちっこい場所で満足できるんだ、って私も思いました。
二次元の限られたスペースに柱が打ち込まれ、空間が生まれて、
そこにいろんな物が持ち込まれて、大切な人が寄り添って、
いろんな会話とか思い出が織り成されていって、
疲れて帰ってきたり楽しんで帰ってきた想いを、家に吐き出して溜め込んでいく。
そういうものが狭い二次元スペースを超えて、家という空間を無限に広げていくわけですよ。
家、生活空間て、そこで暮らす人のすべてが凝縮してると思います。
つまり、それほど「みらい」という場所は彼らにとって凝縮された場所であり、
何もかもいっぱいいっぱいに詰め込まれて膨張して、
すべてを孕んでくれている存在なのですね。
それを上空から見て、
こんなに小さい存在だったのかと、
自分達の生きてる軌跡も存在自体も、
すんごく儚げなことだと実感したんだと思います。
そしてそれは杉本が言うとおり、それってとてもいじらしい・・・。
そのみらいの上を、撫でるように旋廻したのか・・・・・どんな気持ちだったんだろ・・・・・。
そして思いを断ち切って再び向かった大和・・・ですが、
思い切り攻撃受けてて「男たちの大和/YAMATO」を彷彿とさせちゃうんですけど。
あの映画みいな悲惨な戦闘シーンが始まるんだろうか・・・。
でもその前に大統領が動き出しそうですけどね。
すんません、今回はここまでv
PR