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自分の作品で自分が煽られて、つい買ってしまいましたW
ちなみにグールドが洋介にあげるカフェオレ。弱ってる胃に負担をかけず、栄養価が高くて、香りが良くて飲みやすい・・・・を考慮したグールドなりの気遣いですv
映画はその国ごとの『理想の民族像』を形にするものでしょうが、アメリカの映画ってどことなく独特です。あんだけ他民族、他宗教の国なのに、あらゆる作品(とくにメジャーな映画)にキリスト教の色が万遍なく溶け込んでいて面白いと思います。
なぜ宗教紛争があるのか、単一民族の日本人には理解しがたいものだと思います。
スピリチュアルというのは、人類の中に非常に堅く、高く、難しい壁を作ります。
私はお坊さんの説法は好きなんですが、キリスト教の説法は・・・・なぜか身体に溶け込まないんですね。
聖書もお経とおんなじで、説法するひとの腕次第で影響力が違うらしいです。ある牧師さんの説法に感銘を受けられないでいたら、「もっと発言力や表現力のある牧師さんの話を聞いたら、『キリスト教ってすごい』って思うんだよ」って、友人に言われました。(友人も信者じゃないですよ)
でも説法の仕方だけじゃないんだろうなって思うんです。
どの宗教に共感できるかというのは、そのひとの原始的な精神によるところが大きいんだと思います。
もちろん日本人にだって神仏以外を信仰とするひとは沢山いるわけで、ひとくくりにはできないのだけれども。
聖書で言うなら原罪。
浄土真宗でいうなら他力本願。
その意味・知識は得ることが出来ても、万人が『理解』することはできない。
宗教とはそういうものです。
だから紛争はなかなか解決できないんでしょう。
世を救うための宗教なのに、悲しいことです。
でも、知識を持つことは決して無駄じゃないですよね。
キリスト教の基本的な考え方を知ることは良いことだと思います。
それは仏教にある考え方とかなり違います。
それはキリスト教の文化圏で生きる人の思考とか、表現を考えるときに、ちょっとばかり役に立ちます。
そういうわけで、新刊。
松とグルちゃんの聖書についての会話の部分て、目隠しでキャッチボールをしあってるようなモンなんですね。熱烈な信者じゃなくても、神仏融合の日本の風土で育った洋介と、キリスト教が日常にある米の風土で育ったグールドには、どうしてもどうしても分かり合えない部分があると思います。
グールドの欲しい回答が、松にわかるはずがありません。
松にはグールドの質問の意味が、恐怖の意味がわからないんです。
松とグールドのスピリチュアルが決定的に違うからです。
それは言葉で理解し合えるものではないのです。
ただでさえ洋介は特殊な人間なのに、それを理解する手段や精神の基盤が異なってるんですから、グールドの苦悩たるやいかばかりかと思います。愛しているならなおさらです。
そしてこれはグールドと洋介の間だけの話じゃなくて、人種差別だとか、我々が無意識にしている他民族への排他的態度というのは、そのどうしても分かり合えないスピリチュアルな部分に対する、本能的な恐怖ゆえだと思います。
でもそういう民族間のやりとりが、ジレンマにもがく人間が、私は好きです。
そうやって新しい問題を見つけることっていうのは、人類にとって『生きる意味』に繋がってるように思うのです。
ことばで理解できない人類は、それでもなんとかして仲良くなりたくて、多分ハグだとか、握手だとか、音楽だとか、絵だとか、ご飯を一緒に食べるとか・・・・そういうツールで繋がり合おうと必死に生きています。
それっていいなって思います。
ふたりを通して、そういうものも描けたらいいなと思います。
それにしても今回も、誤字脱字段落違いが多すぎる・・・皆さん本当にすみません・・・・。