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~Moon Phase~
緊迫感が続き責務が増え、眠れない日々が続くと、
次第に眠りに落ちていけない体になっていくようだ。
年をとって体力がなくなると、眠りが浅くなるというが、
自分にはまだ体力も、気力も存分にあると思っていた。
過剰なストレスは、自分が思っている以上に身体を老け込ませるんだろうか・・・。
角松は手元で小さな鼓動を続ける、美しい歯車の並びを眺めながら苦笑した。
お前もオーバーオールしたいだろうにな・・。
麺棒で時計の細部を磨く。
彼の、唯一の、肌身離さぬ私物。
ゼニスのクロノマスターだった。
黒く艶のあったクロコダイル革のベルトも、ずいぶん草臥れた風情になってしまった。
だいたいダイビングウォッチでもないのに、海水を浴びすぎなんである。
よく錆びないものだ。
スケルトンになっている裏蓋を覗き込む。
美しい金属のひとつひとつが意味を持ち、役割を正確に引き受け、
全く和を乱さぬ小さな世界を営んでいる。
複雑なのに、この矛盾も混乱もない安定した世界を見ると、安心する。
ここにはアナログという目に見える確かなものしか存在せず、
気が遠くなるほどの人間の努力と、磨かきぬかれた技術が凝縮していて、
これを作り上げた職人の魂が込められている。
迷うな。
ただ誠実にお前の仕事をしろ。
お前の仕事が求められているんだ。
その積み重ねが重要なんだ。
時計を見ているとそう思う。
「眠れないのか?」
尾栗がやってきた。
よく気がつく奴だ。
「ああ。お前こそ眠れないんだろ?」
角松は時計から目を上げて笑った。
「『圭子さん』も元気そうだな」
角松の手の中を覗いて微笑んだ。
角松も微笑み返した。
何年も前の話だ。
「すごいな!ゼニスじゃないか!」
菊池は目を輝かせていた。
角松の腕ごと掴むと息もかかりそうなほどに目を近づける。
「・・お前、近視がまた進んだのか?」
角松の冗談も聞いていない風だった。
「・・・そんなにすごいの?」
時計にそれほど興味のない尾栗は、遠巻きに二人を眺めている。
角松もそんなに時計に詳しくはない。
結婚することになって、結納返しに・・・と贈られたのである。
「お前いったいどんなエンゲージリング渡したんだよ??」
菊池は驚愕しっぱなしだった。
うっとりと時計を眺めている。
「・・・そんな・・すごいのはできなかったさ。ただ相手の家がさ・・・」
菊池の勢いに圧倒される。
マジかよ・・そんなすごい時計なのか?
俺、もっとすごいダイヤ用意しなきゃなんなかったのか??
今更ながら怖くなってきた。
結婚の報告を兼ねて三人で集まった席だった。
とても久しぶりで、それぞれの報告内容が濃かったが、
角松の結婚話が一番盛り上がった。
相手の女性のことは二人とも知っていたが、
実際結婚するとなると、
「おお~!ついに覚悟を決めたか!」という、勝利を祝う気持ちと、
自分らの知らない世界、なんだか遠くの世界へ行ってしまうような寂寥感が広がった。
ひとしきり、良くある「結婚に向けて」の話をしたあと、
先日無事に結納も済んで、結納返しにこんな贈り物をもらったのだと言って見せたのだ。
「このゼニスのクロノマスターというのは、世界中の時計好きが最終目標にしている時計で、
このムーブメントが「エル・プリメロ」といわれてとても素晴らしいんだ」
と、菊池が説明し始めた。
「スイスから直接買い付けないといけないほど、なかなか手に入らないんだぞ」
角松はどんどん青ざめた。
そんなたいそうな物を貰ったなんて知らなかった。
圭子の両親はとても朗らかで、まさかそんな重圧を自分にかけていたとは思わなかった。
一体俺は、これからどんな茨の道を歩かされることになるんだ・・?
腕時計をしている左腕が、岩のように重く感じてきた。
「ムーンフェイズのあるのを選ぶなんて、圭子さんさすがだな。月齢は海の仕事で無視できないからな」
菊池は感心して時計のスペックを調べている。
角松の顔は強張っていった。
・・・・・俺、やっぱエンゲージリングの選び方・・・もう少し考えればよかった・・・。
「洋介、ちょっと裏を見せてくれ。スケルトンになってるだろ?そこからムーブメントが・・・」
「・・・な・・なあ、菊池・・」
マリッジブルーに急降下していく角松の表情を見て、
尾栗は菊池にストップをかけた。
角松の様子に気づこうともしない菊池は、横槍を入れた尾栗を睨んだ。
「なんだ?」
「・・・・・・・・なんか食おうぜ・・・・」
お・・俺って、なんでもっと気の利いた取り持ちができねえんだよ。
尾栗は扱いにくい二人の友人の狭間で、もう何百回目かのため息をついてしまった。
一応、
その後、
角松は菓子折りを用意して、馬鹿丁寧なほど気を使って、
畏縮しまくった表情で圭子の実家を訪れたのだった。
先日まで大らかに笑っていた豪快な婿の一変した様子に、圭子の両親は目を丸くした。
そして事の真相を知り、角松の背を叩いて笑いに笑った。
時計の見立ては圭子自身だった。
船乗りの妻は、離れていても旦那を信じ、愛し続ける、途方もない忍耐が必要である。
自分にそれがあるのか圭子にはわからなかった。
それでも・・と思った。
離れていても自分を感じることのできるものを持っていて欲しいと思った。
なにか贈ろうと思った。
男性に贈れるもので身につけられるもの、かつ仕事に絶対必要になるもの、
といえば時計しか思いつかなかった。
圭子も時計には詳しくなかったので、まわりのたくさんの人に聞いて回った。
じつは、お勧めした張本人は菊池なのである。
菊池はお金には厳しかったので、時計の猛烈なコレクターではなかったが、
とても時計というものが好きだった。
そしてとても豊かな知識を持っていた。
それで、
あるとき、
本当にばったりと出会ってしまった圭子から何気なく尋ねられたとき、答えてしまった。
「男性が喜ぶ時計ですか?う~ん・・いろいろありますけど・・・・」
それでこの時計を探した。
圭子は一目見て、なるほど菊池さんはさすがだと思った。
時計のことなど何も知らない女の自分から見ても、それはとてもとても美しい時計だった。
すっくと伸びた、薄いブロンドの針。
インデックスの一つ一つの文字盤が、存在感を持ちながらも控えめに、
互いに調和し合って、合理的に仕事をし合っている。
見れば見るほど、その精巧で研ぎ澄まされた機械から、
優雅な美しさが伝わってきた。
それで、圭子はこの時計を贈った。
お金ではない・・・純粋な想いからだった。
「あの時さあ・・・」
尾栗は南の夜空を眺めながら言った。
「なんで菊池は『自分が圭子ちゃんに教えた』こと忘れてたのかな?」
「さあなぁ・・・・あいつらしくないよな?」
別に、深い意味はないのかもしれない。
しかし尾栗の続けた言葉に角松は驚いた。
「菊池さ・・・」
尾栗は角松の時計に目を戻して続けた。
「そいつ、持ってるじゃないか」
「え?!そうだっけ?」
尾栗はまたため息・・・もう何千回目だよ・・をついた。
「無頓着だな。ゼニスのクロノマスターだっけ?品番も同じだぞ。見たもん、俺。
他にもオメガとか持ってたけど、そいつも持ってる」
「・・・そうなのか・・・」
じっと角松はクロノマスターを見つめた。
搬送されたとき、あいつどんな時計してたっけ?
それとも持って行かなかったのか?
「・・実は・・・おれも、な・・・・」
「・・・!ええ!?」
「・・持ってねえって・・・ただ欲しいな・・とか思ってさ」
尾栗は軽く角松をからかえた事を大笑いして喜んだ。
角松はすかさず尾栗の心の隙をねらった。
「ゼニスの時計、菊池の部屋に残ってるかもしれないぞ」
一瞬顔をほころばせて、尾栗は慌てた。
「馬鹿言うな!殺されちまうぜ」
ビビッている様子からして、まんざらじゃないらしい。
角松は磨き終えた時計を腕に巻きながら笑った。
「こういう自動巻きの時計はいつも身に着けてネジ巻いたほうがいいんだよ?」
尾栗は断る理由をなんとか見つけてニヤリとした。
「俺みたいな仕事する奴は、防水機能のもっとすごいのじゃないとな」
「これ、結構頑丈だぞ」
「あのな、潜水するときは誰かにダイバーウォッチ借りろよ?圭子ちゃんに怒られるぜ」
「そうだな」
二人は笑って南十字星を見上げた。
同じ空に、時計のムーンフェイズにあるのと同じ形の三日月が、白金の輝きを放っている。
南の空は冴え渡っていた。
遠く離れたところで菊池も呼吸をしている。
同じ空の下で、一緒に呼吸をしている。
時計もあの時と変わらず鼓動を続けている。
時代も世界も変わってしまったけれど、
このひとつの場所にそれらが『存在』しているということは、何も変わらないのだ。
一緒にいるということ、
そう想うこと。
心がやわらかく、温かく癒される。
なんだかようやく、
眠れそうである。
飛鷹 まなみ 2007.8.20
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はいは~~い。
みなさん、彼らの時計、作中で探してくださいね~~あはは~~~~。
私も全巻チェックしましたが(←お前ヒマだな・・・)、
なにか突っ込みどころありましたら、教えてください。すみません。
角松の時計のモデルになってるのは
【ZENITHゼニス】クロノマスターT 01 0240 410 01
です。私も時計、全然分かりません・・・すごい高級時計ってことくらいしか・・・・。
作中では時々デザインが変わったりしてます。ゼニスのつづりも変えられてます。
まあ、「みらい」、「海鳥」といっしょ、空想上のものですので・・・そこはアリかと・・・・。
ちなみに角松と菊池が同じ時計を持っているというのは、事実です・・・(どか~ん!)